歪みのうちがわ

ぶらぶらしたり、忙しかったりしながら生活しています。

うねうねでふにゃふにゃなものたち



今度子供たちを連れていく下見のために葛西臨海水族園に行った。

 

今日は祝日なので入場料がタダ、ゴールデンウィーク真っ只中で天気がいいこともあって人が大勢いた。周辺の芝生ではテント出したり海沿いで水遊びっぽいことをしている人もいる。たしかに、原っぱで大の字で昼寝したくなる陽気。 

イソギンチャク、クラゲなどの刺胞動物ばかり目がいく。
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きれいなウニャウニャ


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電飾のように点滅して光るカブトクラゲ

ちなみに「ミズクラゲ」は英語では「water jellyfish」ではなく「moon jellyfish」と表記されていた。「ツキクラゲ」の方がうっとりした詩情があって素敵だと思った。でも漢字にすると月海月で月がダブる。


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さわってみたい、!


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イソギンチャクのうねうねワサワサした触手が水の中で揺蕩う様子や魚のうろこのザラザラ、アルミホイルみたいにパキッと反射するマグロのつややかさ、柔らかそうなサンゴのつぶつぶ.......といった細かい部分の質感のおもしろさに惹かれる。描いている絵の中でコラージュみたいにごちゃまぜに落とし込んで、海なのか森なのか内臓なのか宇宙なのかなんだかよくわからない構造の部分であり全体にしたいと想像がわく。海も森(木の根っこ)も内臓も宇宙も電線も血管も全部好きなイメージだけど、私の中ではどれもよく似ていて、そしてそこが好きなのだ。どこまでも繋がっていて、ひとつの織物を成しているようなところが。

 

帰り、葛西臨海水族園から東西線葛西駅まで歩いた。40分くらいかかった。(今いる地点から最も近い東西線の駅まで歩き、そこから帰る遊びをよくする)

だいたい、何も無いなりに何かあるしどんな場所でもわりと歩くことを楽しめる人間だけど、辺り一帯想像の50倍くらい何も無かった。やたらと土地面積が広く、道の間隔や店舗あたりの規模がでかい。そのせいか歩いても歩いても変化がなくてえらいつかれる。あと、店の多くが居抜きっぽい。マンション、マンション、ファミレス、マンション、整体院、マンション。コピーアンドペーストしたみたいだった。人間を住まわせるための施設は完備されているけどただそれだけで、その土地特有の醸成された趣や生活の気配がなく、平面的な風景に感じた。うちの近所でも、最近までなんもなかった平地に若い家族を呼び込むために作られたニュータウンはそういう作り物めいた違和感があるが、それに似ていた。

 

葛西はすぐ側にディズニーランドがある。葛西臨海水族園からも遠目にシンデレラ城が見えた。そして、舞浜およびあの一帯は埋め立て地である。元々何も無いところに人工的に陸地を作ったのだから、そこに土着の風情や生活感などないのが当然と言えば当然だろう。そもそも、理想化された無菌室としての夢の国を成立させるためには、その土地に脈々と息づく土地の歴史や住民の情念みたいなものはむしろ障害物になるのかもしれない。「ディズニーランドが埋め立て地の上に作られたこと」は夢の国の閉鎖性、自己完結性を徹底するための絶対的な条件だったのだろうな。ディズニーランドの抜かりなさが恐ろしくもある。(例え話として、個人的には将門の首塚の上に宮殿風のラブホテルが建てられたりして、いくら表面的に隠蔽しても土地の気が圧倒してくるという両者一歩も譲らない決死の拮抗の方が生の躍動感の点でエンターテインメントだと思う)

 

葛西臨海水族園を出たすぐ、葛西駅に行く道沿いにズラリとプラスチックみたいなヤシの木が並んで植えられていた。リゾートの記号群が余裕をなくしていていて、むなしい。

 

 

 

 

 

LDとは

大学の図書館にAVルームといって、音声や映像資料とかを鑑賞できる場所がある。旧新作問わず色々な映画見放題という穴場スポットらしい。

 

今日急にAVルームの存在を思い出したのと、なんとなく「恋する惑星」が見たくなったので初めて利用してみた。

 

DVDを想定していたところに手渡されたのは、どう見てもLPレコード。あれ、なんだこれ?私サントラじゃなくて、映画見たいんだけど…

カウンターのお兄さんに聞いたら、「デカイDVD」と言っていた。再生機器の説明を見るにどうやらこれがレーザーディスク、LDというものらしい。私の中にあるレーザーディスクの知識は吉幾三俺ら東京さ行ぐだ」の歌詞にある「レーザーディスクは何者だ!?」が全てであるため、ここにきて思わぬ邂逅。「レーザーディスク、こいつか!」

 

音量を上げたくて手元にあるリモコンをいじってみても、反応無し。説明には「ツマミを回してください」と書いている。へ〜。なんだかミキシングしてるみたい。ごちゃごちゃしたガジェット類が好きだから、物珍しい再生機器が沢山あるだけで結構ワクワクする。

 

そしてLPもそうだけど、ジャケットがでっかいとアートワークも手に取って触って、裏表見比べたりしてじっくり楽しめるところがいいな。ペラペラなプラスチックに適当なシーンがデザインされた、裏側にあらすじが安っぽいフォントで書かれているDVDって手軽なぶん質感も軽いというか、味気なくてつまらない。レーザーディスクの入れ物は「ジャケット」という特別感や物質的な風格があるけれど、DVDのそれはデータの容器以上の期待を背負っていない。小型化・軽量化が進むにつれて「作品のために特別にあつらえたとっておき」という存在感が薄れていくのはなんでだろう。

recomposed

ちまちま進めていた絵f:id:yasai80831:20220501223552j:image

いまの一時ごとに、解体されては組成されている。次の瞬間には、私のからだは無くなっている。ほかの形でも別によかったのに、たまたまこの形になっている私のからだを愛おしむ間もなく、次の形がはじまっている。

 

描きながら、色々なものに見えてきた。

今週のお弁当


4月後半のお弁当。あまり作れなかったけど、作り出すと楽しくなってしまう。


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残り物の鮭をほぐしてかき菜と炒り卵で三色にした。ハマっている磯辺揚げ、今回は魚肉ソーセージで作った。

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冷凍春巻きだけだとさみしかったので、絹ごし豆腐+ツナ+カレー粉でナゲット作った。簡単においしいメインおかずができていい。少し水っぽかったので、今度は豆腐の水をしっかり切ったほうがいいかも。これにコーンとか枝豆を入れると春らしくて良いかと思う。

かき菜とちくわのからしマヨ和えすごく美味しい。

生身がいい

今日はずっと蒸し暑くて、服が身体に張り付く。夏が好きなのは薄着でいられるからで、それは基本的に身体に布をまといたくないからだ。できるなら、なるたけペラペラの服一枚が一番気持ちいい。

 

毎週楽しみにしているソマティック心理学の授業でダンス実践をした。ダンスといっても、音楽に合わせて好きなように流れに任せて身体を動かすといったもの。

 

ここでもコロナ対策のために、手袋必須での実践。せっかくふれあいを重視しての動きなのに、手汗で蒸れて張り付くビニールの感触が鬱陶しいことこの上ない。ビニール手袋越しに手を繋いでも、手を繋いだことにはならないと感じた。

 

流れる音楽に身をゆだねて好きなようにダラダラ、ユラユラ、ふわふわ回ったり歩いたりが面白い。はじめ気恥ずかしくて控えめにやっていても、だんだんと乗ってきて、息があがるのもおかまいなしに楽しくなってくる。朝、数分間でも好きな音楽流しながら気ままに身体動かすだけで凄くスッキリしそうと思う。

 

なかでも教室を好きなように歩き回って、すれ違いざまに目が合った人を見つめ、目で挨拶するワークがよかった。たったそれだけのことだけど、照れくさくて不思議な感じなのだ。

 

普段、我々はすれ違う人間を景色の一部あるいは雑踏と見なして、個的な人間として見ていないのだろう。平面のスクリーンに次々映し出されるリアルな映像を能動的な形で享受する。決して交わることのない自己完結型の出来事。

しかしまた、いっぽうで見られる側の者も自ら雑踏の部分に甘んじることで自分の領域に侵入されることを巧妙に回避しているのだと思う。「わたくしに何らかの思惑を差し挟まれること」を恐れて、予め予防線を張っているのだ。

 

しかし、埋没と着服の報復によって表面上維持されている関係の無難さよりも、それぞれユニークな個々の人間を無視して「私が」見ている「私の」風景として経験、着服することは傲慢、暴力の行使なのではないか。

 

すれ違いざまに相手の目を見ると、その瞬間「人間」が出没する。前からそこにいたはずなのに、豊かな重みを持った質的な人称が現前する。それは確かにおどろきである。そして相手もまた現れた私におどろいているんだと期待してみる。

 

世界の奥行きが更新されて、新しくなる。ような気がする。

 

 

本日
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あまりの蒸し暑さに耐えかねて湯島の甘味処でかき氷食べた。かき氷の美味しさって、かき氷そのものというより結局その時の環境やコンディションで決まるのではないかと思う。


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器の模様がハートなのです

4月24日 練習の備忘録

烏龍盤打で弓歩の形になるとき、脚をベターと広げてしまうのではなくて、むしろクッとまとめる感じ、馬歩の時のように足の側面で地面を食って膝に張りを持たせるとそのあとの動きが楽だし、仮に膝を踏まれたとしても膝の弾力をもって切り返しができた。

腕、上半身は完全に脱力して、股関節の捻りを動力にその反動で「後から追いかけてくるように」動かすようにすると、内側に重く響くような力が出る。(先端に鈍器の着いたふりこみたい)脱力すればするほど強くなるという一見して矛盾しているようだがこれの威力が本当に凄い。あらゆる物事に通じる思想だと思う。

股関節の使い方はイメージではよく分かるのだけどなかなか難しい。おそらく、自分の骨格として骨盤が出っ張っているため歯磨きする時とか、骨盤の骨で前傾的にもたれかかる癖があるため、<のように鼠径部を突き出すことは自然にできても>←このように折りたたむことがやりにくい。全然折りたたまれてくれないのである。

やっているうちに、動きのつながりや股関節のしなやかさが上半身の動きを繰り出すきっかけになっていることとか、段々とわかるようになってきて嬉しい。見よう見まねだった動きの意図が少しずつ察することができるようになってくる。

 

これ書いてたら、夢中になって乗る電車間違え、来た方向引き返していた。あぶね〜…

ゆるみながれる

身体がグネングネンのグニャングニャンで、と、とける…………よだれが出ちゃう………

 

オンラインで気功教室に参加したら、想像以上に身体がユルンユルンになって、感激感動。しばらくずっと余韻に浸ってしまった。

 

功夫の練習の時に軽い気功をやって、(天候も大いに影響したと思うけど)すごく身体がふやけて内外に満ち満ちた感じになり病みつき必至だったため、さらにしっかりやろうと思い立った。

 

動きの中のゆるみである「放鬆(ファンソン)」。これがもう、すごいのだ。まるで身体の境界が自然の中に溶かされて、混ざりあっていくよう。普段使っている肩の関節がガチガチの蝶番であるとしたら、三段階くらいあるジョイントが全部解除されて、心地よい髄液のなかにフワフワ浮かんでいるようになる。あたかも「身体が空洞になる」という表現の通り、空っぽの充実感が全身に広がって、内側にほのかに甘い温かさが感じられる。思わず口が空いて、よだれが……。

 

動きに映像的なイメージを重ねることで抽象的な感覚を具体的に実感する方法もいい。先生は揺法(ようほう)と教えていた、身体を左右にゆら〜んゆら〜んと自然な重みにまかせて揺らす動きは私的には「柳の木」、先生が言うには「海の底のワカメ」とのこと。確かに、ワカメだ。大きい波が押し寄せてくるのに身をあずけてみたり、小魚が身体の周りを泳いでいたり、目を閉じながらぼんやりと揺れているとほんとうに私は誰にも気付かれずにとある温暖な海の中深く群生するワカメになった気がするのだ。

 

最近ずっと、身体がほんとうにおもしろい。