歪みのうちがわ

ぶらぶらしたり、忙しかったりしながら生活しています。

今週のお弁当

4月中旬のお弁当


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ちくわ磯部カレー揚げにハマって数回作った。この食べ方が一番ちくわの潜在能力を発揮させる気がする。(きゅうりをちくわの穴に詰めるやつは全然ちくわのおいしさを引き出せていない)  

ご飯にもち麦を混ぜたのがおいしい。古米だからかちょっと糠のような香りがするけどむしろ結構好きだ。

狂言を見る

早稲田大学が主催している「早稲田狂言の夕べ」というイベントに当たったので、授業後に行った。着物を着ている人もちらほら居て目を引く。大隈講堂は毎朝見ているけど、実は中に入ったのはこれが初めてである。


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少し前にワキ形能楽師であり著作も色々出されている安田登さんの本にハマっていたこともあって、能や狂言には思想面から関心があった。たまたまポスターで目にしたこのイベントをいい機会にと初めて狂言を観る。こういう機会に恵まれていることが早大生で良かったなと思う点である。

 

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ちゃんとした舞台も初めて見た。予備知識がないため詳しいことはよくわからないけど、生で見る野村萬斎さんは普通に話す声さえふくよかな渋さがあって、遠くから見る立ち姿からしてもすごく素敵だった。  

 

演目は「蝸牛」と「千切木」

いずれも綺麗にオチがつくようなものではないのだけれど、近頃あまり見られない良い意味での能天気さみたいな、ゆるさやおかしさがあってホッコリした。整いだった綺麗さよりも、愉快さや面白みの余韻を楽しみながら続くでもなく終わるでもなく舞台袖に帰っていくのがよかった。なかでも特に「蝸牛」の「でざかまうちわろう〜」「でんでんむしむし」という囃子がずっと楽しい。思わずニヤッとしてしまう。お話の内容も勘違いとか、ドリフのコントみたいなこれ以上やったらくどい!手前の被せネタがベースにあって、日本人の笑いのツボというのは昔から大差ないのだなと思う。「千切木」に登場した絶望的に空気読めないけどどこか憎めない主人公、誘われてないのに同窓会来て散々好き勝手して周りから顰蹙かいながらも悪い人ではないことはわかるから無下にもしにくい、みたいな感じで、こういう人今の世の中にもいるなあ。 

 

能や狂言は調べたら結構色々なところでやっていて、お手ごろな料金で観ることができるみたい。いい夜だったな。

 

出会うこと、生きること

あこがれと確信。

高校生の頃から、人間が人間をもってして等しく向き合うことについて考えを巡らせていた。

「わたし」と「あなた」が意味以前の実存で、何でもないふたつの生命がしばし見つめあい閃光がまたたき、永遠みたいな一瞬のうちに全て解ってしまうということ。そういう極点において初めて対話が生まれ、人間の真価や愛が顕れるということ。それは「わたし」の魂を投じた態度であって、対象が何であっても実現しうるということ。それは生きられるものであって、対象化されるものではないため言葉にするほどに陳腐になってしまうということ。

 

なんて美しくて尊い在り方だろうと思って、長いこと自分の中の根幹に脈づいているテーマとなっている。これからもきっとそうだ。日々生じるあらゆる驚きや関心は結局、この視点に帰結していく。絵を描く時も音楽を聴く時もこのことを心の隅で考えている。きっかけはおそらく個人的な感覚に基づいているものの、常日頃抱いているものはほとんどあこがれ、憧憬に近い。だから、これと似た手触りをもつ世界を退屈な意味連続の隙間に見出すことが好きだし、無性に惹き付けられるのだ。

 

今日、とある本の参考文献に載っていたのをきっかけに手に取った一冊は私がずっと探していたあこがれそのものだった。竹内敏晴さんの「「出会う」ということ」という本である。井筒俊彦先生の「意識と本質」を読んだ時と同様に、身体知として了解されていたものの上手く処理できていない感覚を言語で代弁されたような、カタルシスみたいな感動と喜びがあった。煮えたぎる興奮の濁流みたいなものがお腹から胸を通って心に押し寄せる感じがした。

 

この本によれば、ほんとうに「出会う」とは「じか」「なま」に向き合うことであるという。言語以前の段階で、身体と身体、存在と存在が響き合うような次元で起こることであるという。

また、ほんとうに「出会う」際には必然的に自分自身にも出会う必要がある。ソクラテスの「ドクサの吟味」を引用するところには、「魂を委ねて、裸になって、裸になったその姿をまじまじと自分が見ること」であり、美醜渾然となった自分の姿に恥じ入ってこそ人は本質に気付く事ができて、新しく歩み始めることが可能になるのだという。

 

ひとつずつ実感を伴って、よくわかる。「私は誰だ?」「私は誰だ?」「私は誰だ?」………… 問答の果てに「誰でもない!」というあっけらかんとした地平に出る。それは同時に誰でもよかったのに、なぜかいまここでこのようにしか在ることがなかった私のどうしようもない必然性を物語っている。私が存在していることの「ただごとでなさ」! 

 

気付くことは、産まれ直すことに匹敵すると思う。そしてそこから、「出会い」の場が開かれていく気がする。 

 

すごい本との出会いというのはそれだけで特別で、記念日になる。そういう日があったことを忘れたくないと思った。

P219「出会いとは相手を理解するということではない。その人に驚かされる、驚かされたとたんに裸になっている。相手の前に見知らぬ自分が立っているという、むしろ相手に突破されてしまう。そういうことが出会いということだろうと思う」

 

変な季節 眠い季節

ここ数日、すっかり夏っぽくなったと思えば真冬のように寒くなったり、またもやポカポカ陽気になったり、季節がコロコロ変わって食べ物やお布団問題といった暮らしのアレコレから着るものまで調節に一苦労。昨日までサンダルをおろすか迷っていたのに次の日にはブーツを履いているしまつ。変な季節。

 

つい先週くらいには見頃だった桜もすっかり散ってしまって、青々しい新緑に変わっていた。固まって咲いている桜の花びらが風に吹かれて一枚一枚どこかに散っていく様子を見ていると、川本真琴「桜」の歌詞にある「桜になりたい いっぱい 風の中でいっぱい ひとりぼっちになる練習してるの 」の意味がああこういうことかあと初めて理解できたよ。食べてたお弁当のフタに偶然花びらが入ってきて、せっかくだからとそのまま持って帰った。なんだかうれしい。

 

気候が落ち着かないこともあって、頭がだるかったり眠くてシャッキリしなかったりするのは、春らしいといえば春らしいかもしれん。

 

ずっと気になっていて先日初めて食べた「いねや」の弁当。一人運動会みたい。見えないところまでギュウギュウにフルーツが詰め込まれている。トッポギのように見える左下の箸休めはポテトフライをイチゴジャムに絡めたまずくはないが決してうまくはない謎の食べ物だった。でも、そういうところが愛嬌という感じがする。
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甘い身体

最近、坐禅を組むと終わったあとにどうも頭がボケ〜として、目があんまり開かなかったり筋肉が甘く弛緩している感覚を感じることが多くなった。あと、坐禅中に視覚のピントをあえてボヤかして輪郭と色の世界まで解像度を下げることで入ってくるものを情報ではなく景色としてやり過ごす感覚が楽しめるようになった気がする。

 

昨日イメージしたのは、まず、息を吸う時に横隔膜を開きつつ砂の塔が心の中にぐぐ〜っと屹立し、深く息を吸い込みながら塔が高く伸びてゆく感覚。思い切り空気を吸い込んで塔が伸びきったところで、まるで打ち寄せる波が砂の塔をもろとも攫ってゆく感じでフゥ〜〜…と息を吐き出す。この、塔を創造しては解体して…という穏やかな振幅を繰り返していた。イメージの中では実際に緻密に作られた構造を一旦粒子レベルまでバラバラに分解して、それが磁石で集めた砂鉄のように再び再構築される感覚。それが、映像的に了解されている。

呼吸のリズムに集中できていると、塔の高さが限界に達した肩あたりの緊張感が一気に崩されることによる開放感、ゆるみ、身体が受けるずっしりとした重力をモロに感じることができる。それがすごーく気持ち良くて、「甘い」感じがする。大体、気持ちいいものって全部「限界まで高まった緊張感が一気に解放されること」で説明がつく気がするけど、それを自分で探究し制御している感じだ。なおかつ、瞑想はその経験に没入しつつも同時に「没入しているわたし」を冷静に観察しているため、どこかべつの場所にぷかぷか浮かんでいるような不安定だけど安定しているようなところがあって、それが非常に面白い。

桃の膠?

膠って、日本画絵の具に使われる動物由来の素材で、煮出す時に猛烈な臭気を放つ…という知識しかなかったけど、つまりはゼラチンということみたい。よって「桃膠」とは桃のゼラチンということだ。

 

西早稲田にある甘露というお店で今日食べた「紅棗銀耳桃膠」という冷たいデザート。黒いものが棗、白いコンニャクみたいなのが白キクラゲ、ベースは桃膠(タオジャオ)という桃の樹液から作られた柔らかいゼリーみたいなもの。画数多くて仰々しい字面だけど、よくよく見ると内容そのまんまな名前。

 

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キラキラで綺麗。

 

シロップ薬かちょっと黒糖や烏龍茶のような風味もある甘苦くて滋味深い味。棗は参鶏湯作った時の余りでドライフルーツのものは食べたことがあったけど、こんなにツヤツヤでしっかりしたものは初めて食べた。プルーンに似てるけどもっと皮が固くてモソモソしている。こう書くとマズそうだが食べ応えがあって自分は好きだ。仙草ゼリーとか薬っぽい味がわりと好みなのと、口当たりがサラッとしているのが美味しかった。

また、ゆりねとか蓮の実とか、メニューの中に先日受けた漢方検定のテキストで何度も目にしたものの食材としてはいまだ未体験の名前が沢山あって楽しい。今日初めて食べた白キクラゲもテキストの中で喉の乾きを潤す効能があると書かれていたけど、確かに水分が補われてしっとりしたような気がする。

 

未体験の食材を初めて食し、自分が戸惑いながら知識に組み込んでいる過程を当事者ながら眺めてみると面白い。味や舌触りを確かめては名前と照らし合わせて、感覚と頭を往来して似たような既知の食材を検索してみるけど、やっぱりその食材のユニークさは替えがたく、なるほどなるほどと口に運んでいるうちに納得されてゆく。異国の食べ物や変わった料理に興味津々ですぐ試したくなるのはもちろん好奇心ゆえのものではあるが、こういう理由もあるのかもしれんと思った。

 

もくもくと

昨日の夜、根詰めて絵を描いていて夜更かししてしまった。寝ないでいると、決まって1時をすぎたあたりから肩が凝り始める。

当然だが面倒くさがらずに下絵をちゃんと描くとやっぱりやりやすいし、綺麗に描ける。

 

これからもっと描き込むのがたのしみ。


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