歪みのうちがわ

ぶらぶらしたり、忙しかったりしながら生活しています。

生身がいい

今日はずっと蒸し暑くて、服が身体に張り付く。夏が好きなのは薄着でいられるからで、それは基本的に身体に布をまといたくないからだ。できるなら、なるたけペラペラの服一枚が一番気持ちいい。

 

毎週楽しみにしているソマティック心理学の授業でダンス実践をした。ダンスといっても、音楽に合わせて好きなように流れに任せて身体を動かすといったもの。

 

ここでもコロナ対策のために、手袋必須での実践。せっかくふれあいを重視しての動きなのに、手汗で蒸れて張り付くビニールの感触が鬱陶しいことこの上ない。ビニール手袋越しに手を繋いでも、手を繋いだことにはならないと感じた。

 

流れる音楽に身をゆだねて好きなようにダラダラ、ユラユラ、ふわふわ回ったり歩いたりが面白い。はじめ気恥ずかしくて控えめにやっていても、だんだんと乗ってきて、息があがるのもおかまいなしに楽しくなってくる。朝、数分間でも好きな音楽流しながら気ままに身体動かすだけで凄くスッキリしそうと思う。

 

なかでも教室を好きなように歩き回って、すれ違いざまに目が合った人を見つめ、目で挨拶するワークがよかった。たったそれだけのことだけど、照れくさくて不思議な感じなのだ。

 

普段、我々はすれ違う人間を景色の一部あるいは雑踏と見なして、個的な人間として見ていないのだろう。平面のスクリーンに次々映し出されるリアルな映像を能動的な形で享受する。決して交わることのない自己完結型の出来事。

しかしまた、いっぽうで見られる側の者も自ら雑踏の部分に甘んじることで自分の領域に侵入されることを巧妙に回避しているのだと思う。「わたくしに何らかの思惑を差し挟まれること」を恐れて、予め予防線を張っているのだ。

 

しかし、埋没と着服の報復によって表面上維持されている関係の無難さよりも、それぞれユニークな個々の人間を無視して「私が」見ている「私の」風景として経験、着服することは傲慢、暴力の行使なのではないか。

 

すれ違いざまに相手の目を見ると、その瞬間「人間」が出没する。前からそこにいたはずなのに、豊かな重みを持った質的な人称が現前する。それは確かにおどろきである。そして相手もまた現れた私におどろいているんだと期待してみる。

 

世界の奥行きが更新されて、新しくなる。ような気がする。

 

 

本日
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あまりの蒸し暑さに耐えかねて湯島の甘味処でかき氷食べた。かき氷の美味しさって、かき氷そのものというより結局その時の環境やコンディションで決まるのではないかと思う。


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器の模様がハートなのです