心がつやつや
今日は朝から曇りで時々雨もちらつく、どんよりとした天気。なんとなく気分も定まらない感じ。
でも、地元でやっている気功教室の体験に行くという楽しみがあったのでこころ上向き。
地域のカルチャーセンターでやっている小規模の教室。平日の朝だし、高齢の方がほとんどだった。
いろいろなサイトを見るに、気功を教えるところの中にはやたらと効果の神秘性を強調するところや個人を信奉しているところもあって、そういう場所は肌に合わない。その点ニュートラルな感じで、なおかつ受講料がお手ごろで家から通える距離にある今日の教室は魅力的だった。
質の良い眠りに向けた初夏の養生というテーマで、鼠径部、尾骨、後頭部のゆったり手当てをした。ほんのりあったかくて、目を瞑って身体を揺すっているといい気持ち。
ここでは野口整体の動きや禅密気功の動きを主軸に取り入れていて、身体を開いていく方向性が私の好みと一致していてうれしい。音楽に合わせてふにゃふにゃでれーんと身体をゆらす。それだけなのにあくびと涙が止まらない…。
気功は自分の内面に対する気づきが深まるという点で本質的な覚醒度としては極めて鋭敏なはずなのに、その一方日常的な生活適応の水準は急激に低下する。そのため、表面的にはダレダレの腑抜けになってしまう。この前読んだ蛭川立さんの『意識の彼岸』でいわゆる覚醒剤に相当する向精神薬の類について同様のことがいわれていたけど、気功もそれと似たところがあるなあ。
先生に、気功をすると身体の倦怠感や意識のぼんやり感が一日中抜けなくて生活に支障が出る話をしたら、収功の重要性を教えてくれた。形ばかり収めるのではなくて「これで終わり!」と自分に言い聞かせるところに収功の意義があるという。あと、終わりで適当にその辺を歩いてみたり、頭や全身をパタパタ叩くと意識が正常に復活してくるように感じられた。気が拡散する心地良さに没頭しっぱなしにならずにちゃんと回収するところまで忘れずにやろう。
気功帰り、タイ料理食べた。🇹🇭 おいしいものってため息でる。食べると無くなるのがせつない。
がんばりDAY
今日はつかれた。昨日1日がかりで水族館のワークシートをガーーッと作り直して、体裁から内容から何から何まで練り直し、プリンタートラブルや連絡つかないやら色々ありやっとこさ人数分印刷してなんとか形になった。夏休みの宿題を前日になって死にものぐるいでやるタイプではない私にとってこれは前代未聞の暴挙であった。
必死で作った甲斐あり、完成したワークは引率にも子どもにも好評で良かった。最初、班のメンバーがそれぞれ魚のパーツごとに絵を描いて最後にくっつけて一つにするというアイデアから始まったけど、最終的にお絵描きに限らず知識や観察したこと、クイズとか色々な関心の持ち方に対応できるワークシートだったのが良かったのだと思う。お絵描き好きな子はいいけど、苦手な子や興味無い子は苦痛だろうから。
ワークシートを通じた子ども同士の自由な繋がりを意図していたのに、「ワークシートをやらせること」が目的にすりかわっていては、それは引率のやりたいことの押しつけになっちゃうからね。むしろ、ワークシートは話題のきっかけや繋がる手がかりで、あとは好きなように楽しんでくれたのが一番嬉しい部分だったなあ。
今日は甘い物でも食べて、ゆっくり休もう。
記憶の収まり方
過去の出来事が頭の中でどのように収まっているか、大きく二種類に分かれる。
ひとつは、古いものから新しいものへ時系列的に整然と並んでいるタイプ。出来事を論理的な因果関係で捉えていて、記憶がどこに位置しているかによって時間感覚的な距離の質感が変わるらしい。このタイプの人は、昔のことをすごく覚えていたりする。
もうひとつは、過ぎた出来事はそれがいつのことであろうとひとつのおもちゃ箱に突っ込まれて時系列的な感覚が消失するタイプ。私は後者で、小学校の時の記憶も、高校の記憶も、さすがに昨日今日の出来事とは言わないが、数ヶ月くらい前の記憶だったらさして変わらない解像度で記憶されている。もっとも「すごく昔の記憶」という記号的なラベリングはされているのだけど、記憶内容によって「昔」「ちょっと昔」「はるか昔」のような心理的な時間的距離の違いが実感されるのだとしたら、うーん、あんまりわからん。
現象は過ぎたはしから無限容量のおもちゃ箱の中に突っ込まれていくから、過去の記憶が全然ない。もちろん、すごく印象的で鮮烈な事は覚えているが、それは時間的な遠さを喚起させるものではなくて「今現在想像する仮想画像」のように感じられる。
こうした点的な記憶形態のせいか、昨日の自分が同一人物であるとはっきり断定できない。一貫的な自我をやっているということに建前上はなっているけど、どうもそんな気がしない。
今日、何人かに同じ質問をしたらやっぱり分かれておもしろかった。時系列的に出来事が並んで記憶される人は自分が定めた因果関係の枠組みに収まらない出来事や論理的に処理しかねる記憶はそれだけ時系列の織物から外れているイメージがあるらしい。話を聞いていると、果てしなく連なる記憶の帯があって、その周辺にごろっとした異物のような「相容れない記憶」が点在している風景を想像させられた。世界を厳密に原因と結果の連鎖から成るものと捉えている人は、記憶も時系列状になっているのかな。
人にこの質問するの結構好きだ。
あたまとからだがからっぽ
前がものすご〜く気持ちよかったから、今日もまた気功教室。一風呂浴びた後のような心地よい倦怠感。ボケーとしてものを考えられない。先生は、日に何度も教室持って日常生活に支障はないんだろうか。緩んだ意識の切り替えが追いつかないんじゃなかろうか。
身体がどこまでもからっぽ。からっぽだから、奥行きが果てしない。例えるとすれば、ゼリー状の液体が入った布袋みたい。先生は「器」という表現をしていたな。イメージでは、ゼリー状の溶液の中に気の粒子が溶け込んでいて、粒子の離散集合にまかせて身体の重心がゆったりゆらぐような感じ。個人的には「外殻」という言葉がピッタリくるけど、身体の方が意図的に外側から重みを統率しているのではなくて、内側に蓄えられた気の粒子の密集度の移動があたかも波のように動きを作り出している。ザルに小豆を入れて左右に揺らすことで波の音を演出する楽器があるけど、身体全体がそれになった感じだ。
上半身を脱力して、お布団みたいなポーズでダラーンとしていると、だんだんと手の指先に血が溜まって重くなっていくのがわかる。でも姿勢を直すと、重力にまかせて粒子の滞りがサラサラと拡散していき、それとともに指先がすっと軽くなる。手の色も白くなっていて面白い。
今日一番驚いたのは、意識が弛んで静まった状態で坐っているとき、尾骶骨の位置を正そうとして腰椎の骨ひとつひとつの存在感がわかったこと。腰から上をゆっくりずらそうとすると、腰椎の小さい骨がひとつずつガクッと動くのがわかる。もう少し居直るとまた骨がガクッ。さらに背中を伸ばすとまたガクガクッとして、腰を落ち着かせるだけでこわごわ。でも面白い。
ひととき借り物の身体をいただいたのなら、とことん楽しまないともったいない。こんなに奥行の深い代物を生きていることが驚愕で奇跡だ。
マントウの日
今日は午前中に明日のお弁当のおかずと、お昼用にマントウ作った。クコの実乗っけてみた。
八段錦と五禽戯を通してやって、そのあとマントウ作るなどして、私は中国人になるのかもしれない。。。
以前に作った時に薄力粉が足りず、まあなんとかなるだろうと何も考えずに強力粉でまかない、打ち粉も強力粉で代用したらどう見ても食べ物じゃない、カチコチのゆべしみたいな物体ができて完成とともに捨てたことがあって今回不安だったが、粉の配合きちんとすればおいしくできあがることがわかった。何事もテキトーにすると、ろくな事ないのです。
ナスとピーマンを甘辛く炒めたやつ、生姜のすりおろしたっぷりのナスの揚げ浸し。どっちも夏の料理でうれしい。ホタテと小松菜のオイスターソース炒め。切り干し大根。
あと、もやしがあったからバインセオ風のオムレツを作って中華おかずプレートにしてみた。
バインセオはボウルにもやしと薄切り豚肉、小ネギ入れてごま油と鶏ガラスープの素、ナンプラーをかけてラップしてチンするだけで中身完成。あとは片栗粉混ぜた薄焼き卵で包むだけという簡単調理。卵料理のレパートリーが増えた。
冬にマントウ作りにハマっていて、肉まん作ったりアンマンにしたりしていたが、久々に作ったら楽しかった。生地を黙々とこねているとどんどん表面が滑らかになって、つるりとまあるくなる。それがなんだか赤ちゃんみたいで愛おしい。寝かせる間乾かないように濡れ布巾を被せると、おくるみみたいになるのだ。さらに出来上がった生地を等分に切る時のタンッ.....という小気味よい独特の感触もすごく好き。満足。