歪みのうちがわ

ぶらぶらしたり、忙しかったりしながら生活しています。

記憶の収まり方

過去の出来事が頭の中でどのように収まっているか、大きく二種類に分かれる。

 

ひとつは、古いものから新しいものへ時系列的に整然と並んでいるタイプ。出来事を論理的な因果関係で捉えていて、記憶がどこに位置しているかによって時間感覚的な距離の質感が変わるらしい。このタイプの人は、昔のことをすごく覚えていたりする。

 

もうひとつは、過ぎた出来事はそれがいつのことであろうとひとつのおもちゃ箱に突っ込まれて時系列的な感覚が消失するタイプ。私は後者で、小学校の時の記憶も、高校の記憶も、さすがに昨日今日の出来事とは言わないが、数ヶ月くらい前の記憶だったらさして変わらない解像度で記憶されている。もっとも「すごく昔の記憶」という記号的なラベリングはされているのだけど、記憶内容によって「昔」「ちょっと昔」「はるか昔」のような心理的な時間的距離の違いが実感されるのだとしたら、うーん、あんまりわからん。

現象は過ぎたはしから無限容量のおもちゃ箱の中に突っ込まれていくから、過去の記憶が全然ない。もちろん、すごく印象的で鮮烈な事は覚えているが、それは時間的な遠さを喚起させるものではなくて「今現在想像する仮想画像」のように感じられる。

 

こうした点的な記憶形態のせいか、昨日の自分が同一人物であるとはっきり断定できない。一貫的な自我をやっているということに建前上はなっているけど、どうもそんな気がしない。

 

今日、何人かに同じ質問をしたらやっぱり分かれておもしろかった。時系列的に出来事が並んで記憶される人は自分が定めた因果関係の枠組みに収まらない出来事や論理的に処理しかねる記憶はそれだけ時系列の織物から外れているイメージがあるらしい。話を聞いていると、果てしなく連なる記憶の帯があって、その周辺にごろっとした異物のような「相容れない記憶」が点在している風景を想像させられた。世界を厳密に原因と結果の連鎖から成るものと捉えている人は、記憶も時系列状になっているのかな。

 

人にこの質問するの結構好きだ。