出会うこと、生きること
あこがれと確信。
高校生の頃から、人間が人間をもってして等しく向き合うことについて考えを巡らせていた。
「わたし」と「あなた」が意味以前の実存で、何でもないふたつの生命がしばし見つめあい閃光がまたたき、永遠みたいな一瞬のうちに全て解ってしまうということ。そういう極点において初めて対話が生まれ、人間の真価や愛が顕れるということ。それは「わたし」の魂を投じた態度であって、対象が何であっても実現しうるということ。それは生きられるものであって、対象化されるものではないため言葉にするほどに陳腐になってしまうということ。
なんて美しくて尊い在り方だろうと思って、長いこと自分の中の根幹に脈づいているテーマとなっている。これからもきっとそうだ。日々生じるあらゆる驚きや関心は結局、この視点に帰結していく。絵を描く時も音楽を聴く時もこのことを心の隅で考えている。きっかけはおそらく個人的な感覚に基づいているものの、常日頃抱いているものはほとんどあこがれ、憧憬に近い。だから、これと似た手触りをもつ世界を退屈な意味連続の隙間に見出すことが好きだし、無性に惹き付けられるのだ。
今日、とある本の参考文献に載っていたのをきっかけに手に取った一冊は私がずっと探していたあこがれそのものだった。竹内敏晴さんの「「出会う」ということ」という本である。井筒俊彦先生の「意識と本質」を読んだ時と同様に、身体知として了解されていたものの上手く処理できていない感覚を言語で代弁されたような、カタルシスみたいな感動と喜びがあった。煮えたぎる興奮の濁流みたいなものがお腹から胸を通って心に押し寄せる感じがした。
この本によれば、ほんとうに「出会う」とは「じか」「なま」に向き合うことであるという。言語以前の段階で、身体と身体、存在と存在が響き合うような次元で起こることであるという。
また、ほんとうに「出会う」際には必然的に自分自身にも出会う必要がある。ソクラテスの「ドクサの吟味」を引用するところには、「魂を委ねて、裸になって、裸になったその姿をまじまじと自分が見ること」であり、美醜渾然となった自分の姿に恥じ入ってこそ人は本質に気付く事ができて、新しく歩み始めることが可能になるのだという。
ひとつずつ実感を伴って、よくわかる。「私は誰だ?」「私は誰だ?」「私は誰だ?」………… 問答の果てに「誰でもない!」というあっけらかんとした地平に出る。それは同時に誰でもよかったのに、なぜかいまここでこのようにしか在ることがなかった私のどうしようもない必然性を物語っている。私が存在していることの「ただごとでなさ」!
気付くことは、産まれ直すことに匹敵すると思う。そしてそこから、「出会い」の場が開かれていく気がする。
すごい本との出会いというのはそれだけで特別で、記念日になる。そういう日があったことを忘れたくないと思った。
P219「出会いとは相手を理解するということではない。その人に驚かされる、驚かされたとたんに裸になっている。相手の前に見知らぬ自分が立っているという、むしろ相手に突破されてしまう。そういうことが出会いということだろうと思う」