夏の夕方は早い時間にお風呂に入るといい
久しぶりにちゃんと絵を描く。たのC
inner tree
時間かかった。内面宇宙
「liminal space」について
海外を中心に「liminal space」とのネットミームが話題と知る。
色々あるが、代表的な画像はこういうものである。
2019年頃から4chan界隈で話題になり、最近はファウンドフッテージを模した映像やホラーゲーム、音楽ジャンル等「liminal space」を題材にした作品群が続々登場し、ひとつのカルチャーを築きつつあるらしい。
「liminal space」とされるのは薄暗いオフィスビルの廊下や無人駅、閑散としたショッピングモール、閉店後のファストフード店、幾何学的な設計のプールなど様々だが、共通項は「人が誰もいない」ということ。
これについて多くの人が懐かしさと不安感、既視感と疎外感が同居した微妙な感覚を抱いているようである。
家族で行った古い温泉旅館、浴場に行く途中で一瞬だけ見たゲームコーナー。ショッピングモールのトイレから出たらそこにいるはずの親がいなかったときの引き込まれるような不安感。6時間目、体育の授業で誰もいない教室に忘れ物取りに行ったとき時間が止まってるみたいだったこと。こうした個人的な決定的瞬間を切り取ったイメージが「liminal space」として世界中の注目を集めているのはすごく興味深い。
ちなみに数年前、「夢で行ったゲームセンター」がちょっと話題になったが、これもこの概念に相当するのだろう。
「夢で見たことがある」ネットで話題のゲームセンター - YouTube
また「liminal space」は「dream core」というジャンルと並べて扱われることも多く、いわゆる「fever dream」、「熱が出た時の夢」で見る光景ともいわれる。この点でも、「liminal space」と「夢」は文化圏問わず重要な関連性があるようだ。
ちなみに私がよく見る夢の中の場所はいつまでも終わらない日曜日の午後のようで、どの空間も均質に晴れていて、のどかだ。そして、誰もいない。道路も、スーパーも、学校も、自分の家も変わらずそこにあるが薄膜越しに見たようににぶく霞んでいて、遠い。羊水に浮かんでいるように穏やかなのに、無機質。人類が滅亡した後の静かで平穏な世界はたぶんこういう感じだと思う。
夢を見ている最中ではこの特殊さに気づかないけれど、後からその懐かしくて奇妙な気配を思い出すと心臓がふわっと浮き上がるような、不思議な気持ちになる。私はこれを「夢と似た手触り」「間延びした空間」と呼んで、この感じを喚起させる対象を見つけることを密かな楽しみとしていた。
例︰
怖いテレビ局のクロージング集 20連発 - YouTube
他にも、平壌のハリボテ都市や香港のビル群、日が長い夏の時期の影、映画『インディージョーンズ』に登場する街を模した核実験施設も似た感じで好きだ。
元はと言えば、キリコやホッパーなどシュルレアリスムの絵画世界やキューブリック作品における空間も同様の地平を想定している気がする。個人的には、『千と千尋の神隠し』に登場する六番目の駅も「liminal space」に該当すると思う。これらに共通して見られるのは「人気がないこと」「構造的に違和感があること」「見るものの想像をかき立てること」だろうか。そこに自分がいるとして、一体どこまで奥行きがあるのか、どのような空間に繋がっているのか、この先に何があるのか想像すると物凄くワクワクする。それなのに、「二度と戻って来れない」という前提を感じさせる景色だ。
これまで、「夢と似た手触り」に惹かれること、外部のイメージに夢の状況を重ねて特殊な感覚を再現しようとすることは自分だけの秘密の楽しみだと思っていたので、こうして一大ムーブメントになっていると知り、あたかも好きだったバンドがメジャーデビューする時のような複雑な気持ちである。しかし、一方で世界中の人間が自分と同様の感覚を同様のイメージについて共有しているということは驚きでもあった。英語圏と日本では文化も環境も異なれば夢に見る光景もそれに対応して違うはず。それなのに、「liminal space」について同じように反応するのはなぜか。
これについては、C.G.ユングの「集合的無意識」が思い出される。
集合的無意識とは、個人的無意識の深層にある、民族や文化を超えて共有された無意識領域のことである。そこには、「元型」という神話等に共通して見られる原始的イメージが存在するとして、その「元型」的イメージは個人の夢の中に出現するといわれる。
つまり、「liminal space」とはユングのいう「元型」にあたる概念であり、これまで多くの人が漠然と認識していたものの名称化されずにいた部分がこの2010年代後半より、ネットを媒体として急激に表面化したのではないか。
さらに、「liminal space」がインターネットに慣れ親しんで育った若者を中心とするブームなのであれば、それが示す「元型」自体がそもそもインターネットという仮想世界で発生し形を変えて流布しているもので、そのため「liminal space」に対する反応の文化差や地域差が生じない、生じえないと考えられるのではなかろうか。なぜなら、インターネットに発端し、インターネット内で暴かれたものだから。(こうなると、ますますlainっぽい)
これは、「vapor wave」に頻用される独特の80年代風アートワークに対して若者が共通して抱くノスタルジアに関しても言えるかもしれない。彼らは、世界のどこかのだれかが作ったダサいCGで石膏像とヤシの木が配置された画像にVHS加工を施した「vaporwaveのイメージ」に対して等しく経験したことのない20世紀を想う。また、今の中高生(2000年代半ば産まれ)はセーラームーンとからんまのセルアニメ画像をして「エモい」と評するが、これも決して経験に基づいて「懐かしい」のではなく「エモい」であることが重要なのだろう。
なお「liminal」とは「境界」という意味であり、「境界に位置する場所」というのは非常に的確な表現である。
「あちらとこちら」「意識と無意識」「生と死」「異常と正常」といった近代的な対立項に属さない中間のあわい、「架空のどこか」への根源的な興味やあこがれが「liminal space」の流行に反映されているのかもしれないと思う。これまでの世間が「ハレ」か「ケ」の二元的基準にあるとして、これからはその間のゴチャゴチャした部分やあいまいさに面白さとか豊かさを見出すようになるという時代の兆候であればうれしいことだ。
(※ホラーゲームにしろ、廃病院とか実験施設とか露骨に「あちら側」が演出された舞台設定よりも、どちらでもないからこそいつでも侵食して溶け合う可能性がある「liminal space」はこわい。そもそも境界だから、領域の明確なスイッチが存在しないという不安。)
心がつやつや
今日は朝から曇りで時々雨もちらつく、どんよりとした天気。なんとなく気分も定まらない感じ。
でも、地元でやっている気功教室の体験に行くという楽しみがあったのでこころ上向き。
地域のカルチャーセンターでやっている小規模の教室。平日の朝だし、高齢の方がほとんどだった。
いろいろなサイトを見るに、気功を教えるところの中にはやたらと効果の神秘性を強調するところや個人を信奉しているところもあって、そういう場所は肌に合わない。その点ニュートラルな感じで、なおかつ受講料がお手ごろで家から通える距離にある今日の教室は魅力的だった。
質の良い眠りに向けた初夏の養生というテーマで、鼠径部、尾骨、後頭部のゆったり手当てをした。ほんのりあったかくて、目を瞑って身体を揺すっているといい気持ち。
ここでは野口整体の動きや禅密気功の動きを主軸に取り入れていて、身体を開いていく方向性が私の好みと一致していてうれしい。音楽に合わせてふにゃふにゃでれーんと身体をゆらす。それだけなのにあくびと涙が止まらない…。
気功は自分の内面に対する気づきが深まるという点で本質的な覚醒度としては極めて鋭敏なはずなのに、その一方日常的な生活適応の水準は急激に低下する。そのため、表面的にはダレダレの腑抜けになってしまう。この前読んだ蛭川立さんの『意識の彼岸』でいわゆる覚醒剤に相当する向精神薬の類について同様のことがいわれていたけど、気功もそれと似たところがあるなあ。
先生に、気功をすると身体の倦怠感や意識のぼんやり感が一日中抜けなくて生活に支障が出る話をしたら、収功の重要性を教えてくれた。形ばかり収めるのではなくて「これで終わり!」と自分に言い聞かせるところに収功の意義があるという。あと、終わりで適当にその辺を歩いてみたり、頭や全身をパタパタ叩くと意識が正常に復活してくるように感じられた。気が拡散する心地良さに没頭しっぱなしにならずにちゃんと回収するところまで忘れずにやろう。
気功帰り、タイ料理食べた。🇹🇭 おいしいものってため息でる。食べると無くなるのがせつない。
がんばりDAY
今日はつかれた。昨日1日がかりで水族館のワークシートをガーーッと作り直して、体裁から内容から何から何まで練り直し、プリンタートラブルや連絡つかないやら色々ありやっとこさ人数分印刷してなんとか形になった。夏休みの宿題を前日になって死にものぐるいでやるタイプではない私にとってこれは前代未聞の暴挙であった。
必死で作った甲斐あり、完成したワークは引率にも子どもにも好評で良かった。最初、班のメンバーがそれぞれ魚のパーツごとに絵を描いて最後にくっつけて一つにするというアイデアから始まったけど、最終的にお絵描きに限らず知識や観察したこと、クイズとか色々な関心の持ち方に対応できるワークシートだったのが良かったのだと思う。お絵描き好きな子はいいけど、苦手な子や興味無い子は苦痛だろうから。
ワークシートを通じた子ども同士の自由な繋がりを意図していたのに、「ワークシートをやらせること」が目的にすりかわっていては、それは引率のやりたいことの押しつけになっちゃうからね。むしろ、ワークシートは話題のきっかけや繋がる手がかりで、あとは好きなように楽しんでくれたのが一番嬉しい部分だったなあ。
今日は甘い物でも食べて、ゆっくり休もう。