歪みのうちがわ

ぶらぶらしたり、忙しかったりしながら生活しています。

みんな、考えながら話している

私な〜んも考えてないかもしれない。たぶん、何も考えていない。

 

話によると、一般的には会話を通して自分と相手の共通点を探し、相互の心理的距離感を伺いつつ擦り合わせていくらしい。そのために頭の中では会話中に言及された話題から手持ちの引き出しを検索し、考えられる展開の分岐を消したり増やしたり、聞くだけでも何とも複雑な処理が当然のごとく行われているとのこと。もちろん話の展開に詰まることもあるが、そうした場合は夏だったら「暑いね〜…」冬だったら「寒いね〜…」春秋だったら「めっちゃ晴れてない!?」がいわゆるロード時間のつなぎ文句らしい。話題の切り口を見出すことに精一杯であるだろうに、沈黙の空白時間に相手の不安を煽ってしまわないようにする気配りが瞬発的にできることがすごい。

 

なかでも驚いたことは、情報を保持する動機に「誰かに話したい」という共有願望が前提にあるということ。話題作りのために時事情報やエンタメ情報をこまめにチェックしたり、話のきっかけのためにわざわざそれ用の趣味を持つ人もいるらしい。なんだ、知りたいから知る、好きだからするんじゃないのか… なんでこんなくだらん内容がトップニュースになるのだと常日頃思っていたが、かりそめにでも会話を繋ぐためと考えれば納得がいく。

 

さらには、何か楽しいことがあった時それをわざわざ覚えている理由の最たるものは「人に話したいから」なのだという。私にとって、楽しい記憶は自分で好きな時に取り出して、ホクホクニヤニヤするためだけにあるのに。仮に人に話したとしても、それが発生した時点で共有を想定することはまずない。(すごい変な出来事に遭遇したり、怖い思いをしたら別だけど)

 

そしてこれは最近会得したと思っていながらにしてまたも指摘された大原則、やっぱりわかっていないらしい。会話の目的はコミュニケーションで、その人と仲良くなりたいということに主軸があるのであって、中身の充実度はさして、というかまったく重視されないということ。なおかつ、「会話」において「話を聞く」ということは「聞こえた内容を承知しました」と自己完結して終わりではなく、それが話し手に伝わるように「聞いていますよ、承知しましたよ」をアピールすることまでが含まれているとのこと。これ、普通の人は普通にできているらしい。私、やってるつもりなんですがどうもできてないっぽい。話し方の抑揚やリアクションもそうだけど、私から見て過剰すぎるくらいで自然と言われる。しかし、やっていてアホみたいに思えるのと、演出側に傾倒しすぎると肝心の内容に気が回らなくなるのが難しい。

 

誰も彼もよくもまあそんな難しいことをしていて、疲れないのかと聞いたら、やはり相応に疲れるため、家と外ではモードを切り替えて省電力モードみたいになると言っていた。スゴい。よくできたノーミソの仕組み自体もそうだし、内省してコントロールできることもスゴい。

 

道行く人みんな私のように何も考えずに話したいことを話したいように話しているものだと思っていたから、私には見えない複雑技巧ネットワークがくまなく張り巡らされていることは衝撃だった。私には生得的な利用資格が無いっぽいが、存在を知ることに世界の解像密度がひとつ上がったようなおどろきがあった。みんな中間や曖昧な選択肢が人それぞれ沢山あって、「そうでもない」「ここではそうってことにしとこう」「あるっちゃあ、ある」とかよりどりみどりなのに、私だけ「はい」「いいえ」の2択しか選択肢を与えられていないみたい。

 

特別社会的な要請もないのに発達障害だなんだと簡単に決めつけては理由探しをするのも言い訳めいていて好まないが、なんだかなあという感じだ。