歪みのうちがわ

ぶらぶらしたり、忙しかったりしながら生活しています。

ゴミはずっとそこにある

私が通っている大学には雇われている清掃員の方が大勢いて、キャンパスのあちらこちらで日がな働いているのを見かける。

大抵は5、60代の女性が多いけど、若い男性も結構いる。みな青い制服を着てそれぞれの持ち場で黙々と忙しそうにしていたり、清掃員同士で何やら話していることもある。

 

高額な学費が徴収されているだけあって、大学は学舎としての必要をはるかに上回って寸分の抜け目もなく完璧に整備されているように見える。完璧すぎて、「明るく健康で充実したキャンパスライフ」というコンセプトにそぐわない過ごし方をしようものなら肩身が狭くなってしまうくらい、それだけ徹底されている。

 

昼休みに大学のベンチで本を読んでいたら、すぐそばで清掃員二人組がゴミの回収作業を始めた。恰幅のいいおばちゃんとひょろんとした男性。景観を損なわないないようにウッド調に仕立てられたゴミ箱の蓋を二人がかりで開け、リサイクルとは名ばかりで乱雑に突っ込まれた弁当の空き容器やら箸やらペットボトルやらよくわからない生ゴミの入った彼の上半身ほどもありそうな袋を引き上げ、口を縛る。しかし容量に対してゴミの量が多すぎて、一向に袋が閉まらない。体重を乗せて潰しても、袋のはしを引き伸ばしても全然ダメそうだ。諦めた様子で男性は新しい袋にゴミを少し空けてなんとか口を縛ることができた。そのあと新しいゴミ袋を設置するのも一手間で、直に袋を被せる前に新聞紙を引くらしい。汁気対策なのだろうか。一通りの作業が完了すると、ヨッコイショと二人がかりで蓋を閉める。次に着手した隣のゴミ箱はペットボトル一本しか入っていなかったらしく、おばちゃんが「これだけ、、、、!!!!」とため息なのか呆れなのか独り言にしてはやけに大きな声で絶句していた。

務めを果たした二人はまたどこか別の作業に移っていったはずだ。二人がいなくなった後の空間にはいつも通り景観を損なわないようにウッド調に仕立てられたゴミ箱があって、私の周りには午後からの打ち合わせの日程調節にあくせくするサラリーマンとか、談笑する学生とか、猫背でお昼を食べているおじさんとかがいる。それぞれがそれぞれに出来事を穏当に生活している。その密度はさまざまで、平行なのが重なったりすれ違ったり一生平行のままだったりするのだと思う。

 

ゴミをゴミ箱に捨てる時、というか投げ入れる時、そのゴミは手元から離れた瞬間にどこか彼方の永久ディスポーザーみたいなところに瞬時に回収されて消失してしまうような感覚を抱いていた。おそらくそれは私が出したゴミの責任の所在意識を反映していて、「ゴミ箱を探してウロウロしている最中」ゴミは私の責任下にあるけど、「ゴミ箱と称された穴に入った」途端に責任が解除されることを示しているのだと思う。個人差があると思うけど、私の場合ゴミ箱を探している最中にうっかりゴミを落としたとしたらそれがガムの銀紙程度でもまだ「私」という特定性から離れていないため見て見ぬふりをするのは罪悪感があって気が引ける。一方で一度ゴミ箱に入ってしまえば私とゴミの関与関係はきっぱり消滅してしまう。ゴミ箱の穴を境界にして途端にゴミが匿名化される。

 

ゴミがゴミ箱に入ったその後もゴミはそこにある。「いろんな汁でベトベトで汚いなあ〜これもうさっさと捨てたい」と思って爪先で嫌々持っていたゴミもそのまんまそこにあるし、あろうことか堆積するゴミの影響下でいっそうすごいことになっているかもしれないが自動的に消えてくれることはありえず、そこにある。ゴミ箱は無限自動回収器ではなかった。

 

私は、私自身が「ゴミ箱」ではなく「景観を損なわないようウッド調に仕立てられた」の方に順応していたことに危機感を覚えた。世界の穏やかさがその制度を維持するためにあらゆるものを無かったことに仕向けているゆえ、醒めていなければ、やさしく取り込まれると思った。